去年は私はソーシャルでカネを稼ぐことを夢見た。やってみた感想は「やれないことはないけれども、狭き門すぎ。10年後はともかく、今年来年に多くの人たちがやれることじゃない」というものだ。
一番手っ取り早くカネを稼ぐ方法は、勤め人になることだ。正社員だけでなく、派遣やアルバイトでもいい。日本人の圧倒的多数には実際それしか手段がない。
私は無事に勤め人が続けられた試しがない。チャランポランな私でも35歳くらいまでは会社勤めしていた。いつも最後は、私は組織が嫌になって辞めるか組織から蹴り出されるかどちらかだった。
私は組織不信症である。東大卒という組織人としての最高のカードを持ちながら、最初に入った大企業をいとも簡単にやめた。上司や同僚には強く引きとめられた。大企業の人たちは「会社を存分に利用して成長したらいい」とか「社内はいろんな人たちがいて勉強になるよ」とか盛んに言っていたけど私は少しも信じられなかった。
だがいまは「会社が従業員に良くしてくれる」ということはありうるのだろうと思うようになった。会社によって大きな舞台を与えられ、鍛えられて、成長していくひとたちも確かにいる。
私は、子供のころから一度も組織を信じたこともなかった。私が所属した最初の組織は小学校だった。私にとって、小学校での勉強は退屈すぎ、生活指導はうとましすぎた。私の目からみると、小学校は自分に何の益ももたらさず、偽善的で面倒な存在でしかなかった。それから出会ったあらゆる組織を私は信じることができず、その命令に黙って従ったり、組織に有効に働きかけたり、指導的な地位を得ることはなかった。私は、いつも一匹狼だった。
信頼は常に互恵的(reciprocal)なものだ。一方が信じていないときに、どうして他方が信じることができるだろうか。組織は私を失望させてきたかもしれないが、私も組織を信じていなかったのだから、どっちもどっちだ。
よくよく観察すると、私が組織を非難するときには、かすかな羨望が混じっている。人間は社会的動物である。それがどんなものであれ、人間は本来、一定の組織に所属し、そこで安定した地位を与えられることに満足を覚えるものではないのか。私は、既存の組織を非難するけれども、本当は組織に所属して、認められ「大きな仕事」をしたかったではなかったか。そうしたくてもできない種々の事情ゆえに私は組織を非難するのではないか。まことにみっともない話だが、そういう部分を認めざるを得ない。
もっとも、すべての人たちが大きな組織で働けるわけでも、それに向いているわけでもない。人々が政府や大企業のような一糸乱れぬ指揮命令系統の下で緊密に協力して働くようになったのは、ごく最近のことだ。昔、人々が属していたのは、家族や村といった小集団だ。人々はもともと大組織で働くようにできていないし、そこで強いストレスを感じている人たちも多い。
大多数は他に選択肢を持たず若干の不満があっても組織で働き続ける一方で、少数の者たちは、どうしても組織が我慢ならずそこから離れたところで働く。彼らは生き残るために何らかの専門技能を備えることが多い。組織に属さず、しかし組織に対して自分の技能を売りつけながら生き延びる人たちだ。
これは大陸の中央にいる定住民(=政府・大企業)と周縁の遊牧民(=自営業者)という関係になぞらえることもできるだろう。彼らは時には戦争をしたが、たいていのときは交易を通じて共存共栄していた。定住民は、組織力によって強盛を誇るが、すべてが可能なわけではなく、遊牧民にしかできないこともある。
私は遊牧民になるべくして生まれついたようである。私は40をすぎ、やり直すには歳を取りすぎた。私の身の処し方は、圧倒的に自由人的で、自営業はやれても、組織人にはまるで向いていない。
だが、これからは定住民たちを敵視するのではなく、敬意を払いつつ接することにしたい。基本的に、人間が偉大な動物であるのは、大きな組織を作れる点にある。政府や大企業という組織を抜きに、現代の高度な文明水準は想像することさえできない。組織において、多くの人たちが共通の目標に向かって、整然と協働作業できるのは、素晴らしいことだ。
定住民の価値観からすれば、組織に属さず周縁に位置する遊牧民は、蛮族であり軽蔑の対象かもしれない。それでも、私は定住民たちと良好な関係を築くことに心を砕こう。たとえ私自身が定住民になれなかったとしても。