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  1. 16:49 8th Mar 2013

    Notes: 5

    組織と私

    去年は私はソーシャルでカネを稼ぐことを夢見た。やってみた感想は「やれないことはないけれども、狭き門すぎ。10年後はともかく、今年来年に多くの人たちがやれることじゃない」というものだ。

    一番手っ取り早くカネを稼ぐ方法は、勤め人になることだ。正社員だけでなく、派遣やアルバイトでもいい。日本人の圧倒的多数には実際それしか手段がない。

    私は無事に勤め人が続けられた試しがない。チャランポランな私でも35歳くらいまでは会社勤めしていた。いつも最後は、私は組織が嫌になって辞めるか組織から蹴り出されるかどちらかだった。

    私は組織不信症である。東大卒という組織人としての最高のカードを持ちながら、最初に入った大企業をいとも簡単にやめた。上司や同僚には強く引きとめられた。大企業の人たちは「会社を存分に利用して成長したらいい」とか「社内はいろんな人たちがいて勉強になるよ」とか盛んに言っていたけど私は少しも信じられなかった。

    だがいまは「会社が従業員に良くしてくれる」ということはありうるのだろうと思うようになった。会社によって大きな舞台を与えられ、鍛えられて、成長していくひとたちも確かにいる。

    私は、子供のころから一度も組織を信じたこともなかった。私が所属した最初の組織は小学校だった。私にとって、小学校での勉強は退屈すぎ、生活指導はうとましすぎた。私の目からみると、小学校は自分に何の益ももたらさず、偽善的で面倒な存在でしかなかった。それから出会ったあらゆる組織を私は信じることができず、その命令に黙って従ったり、組織に有効に働きかけたり、指導的な地位を得ることはなかった。私は、いつも一匹狼だった。

    信頼は常に互恵的(reciprocal)なものだ。一方が信じていないときに、どうして他方が信じることができるだろうか。組織は私を失望させてきたかもしれないが、私も組織を信じていなかったのだから、どっちもどっちだ。

    よくよく観察すると、私が組織を非難するときには、かすかな羨望が混じっている。人間は社会的動物である。それがどんなものであれ、人間は本来、一定の組織に所属し、そこで安定した地位を与えられることに満足を覚えるものではないのか。私は、既存の組織を非難するけれども、本当は組織に所属して、認められ「大きな仕事」をしたかったではなかったか。そうしたくてもできない種々の事情ゆえに私は組織を非難するのではないか。まことにみっともない話だが、そういう部分を認めざるを得ない。

    もっとも、すべての人たちが大きな組織で働けるわけでも、それに向いているわけでもない。人々が政府や大企業のような一糸乱れぬ指揮命令系統の下で緊密に協力して働くようになったのは、ごく最近のことだ。昔、人々が属していたのは、家族や村といった小集団だ。人々はもともと大組織で働くようにできていないし、そこで強いストレスを感じている人たちも多い。

    大多数は他に選択肢を持たず若干の不満があっても組織で働き続ける一方で、少数の者たちは、どうしても組織が我慢ならずそこから離れたところで働く。彼らは生き残るために何らかの専門技能を備えることが多い。組織に属さず、しかし組織に対して自分の技能を売りつけながら生き延びる人たちだ。

    これは大陸の中央にいる定住民(=政府・大企業)と周縁の遊牧民(=自営業者)という関係になぞらえることもできるだろう。彼らは時には戦争をしたが、たいていのときは交易を通じて共存共栄していた。定住民は、組織力によって強盛を誇るが、すべてが可能なわけではなく、遊牧民にしかできないこともある。

    私は遊牧民になるべくして生まれついたようである。私は40をすぎ、やり直すには歳を取りすぎた。私の身の処し方は、圧倒的に自由人的で、自営業はやれても、組織人にはまるで向いていない。

    だが、これからは定住民たちを敵視するのではなく、敬意を払いつつ接することにしたい。基本的に、人間が偉大な動物であるのは、大きな組織を作れる点にある。政府や大企業という組織を抜きに、現代の高度な文明水準は想像することさえできない。組織において、多くの人たちが共通の目標に向かって、整然と協働作業できるのは、素晴らしいことだ。

    定住民の価値観からすれば、組織に属さず周縁に位置する遊牧民は、蛮族であり軽蔑の対象かもしれない。それでも、私は定住民たちと良好な関係を築くことに心を砕こう。たとえ私自身が定住民になれなかったとしても。

     
  2. 19:06 14th Feb 2013

    Notes: 2

    私も「つまらない話」を書こう

    コンビニ店長が男前すぎる。

    つまらない記事書いたよ - 24時間残念営業 http://lkhjkljkljdkljl.hatenablog.com/entry/2013/02/13/233709

    自分の好きなように書く。 これが、本当、基本中の基本よね。 私もこの基本を最近忘れていた。

    上のエントリーを論評するこの記事も素晴らしい。

    自由を削ってブログを書くか、自由になるためにブログを書くか - シロクマの屑籠

    http://d.hatena.ne.jp/p_shirokuma/20130214/p1

    「書きたいことが書けないブログなんてやりたくねぇ!!」

    本当にそうだね。

    私もそもそもネットで儲けようとしたあたりからブログを書くのがつまらなくなった。ブログにたまに Amazon のアフィリエイトを貼るくらいはご愛嬌だが(どうせ大して稼げはしない)それだけで食おうすれば、芸人にならざるをえなくなる。芸人になるというのは、ある固定化した読者の期待に答えなければならないということ=キャラを作る、ということなんだよ。シロクマさん風にいえば「中の人」は抑圧されてしまうということだ。

    私もこういう事情を踏まえて行動を起こしていくつもりだ。

     
  3. 20:14 1st Feb 2013

    Notes: 2

    ソーシャルメディアについて思うこと

    私は、いまエルムラボという有料の小さなオンライン学習コミュニティを運営しているし、Skype相談もみなブログ経由で来たものだから、こういうビジネスを可能にしてくれたソーシャルメディア、特に私がメインのブログをホストしている「はてな」に対して、文句が言えた義理ではないのだが、正直言って、どうも私にとってソーシャルメディアはこの1年で急につまらないものになってしまった。

    どうしてつまらなくなってしまったのか。私が変わったのか?ソーシャルメディアが変わったのか?おそらくは両方なのだろう。

    このまえ、ある古参の有名ブロガーと話をしていたのだが、彼の説では、ソーシャルメディアがキャズムを越えてしまい、マジョリティが市場に大量に流入してきたのが、つまらなくなった最大の原因だという。そうなのかもしれない。私はどうもインターネットではイノベーターまたはアーリーアダプターにならざるを得ない性格らしい。こうした人たちだけで構成されている世界は面白いのだが、いちどキャズムを越えて人気がブレイクし、大量の有象無象(というのはたいへん傲慢な言い方とは承知しているが)が流入してきた途端につまらなくなってしまう。

    とくにはてなの変質がいちじるしいように感じる。はてなブックマークのホットエントリーはスパムみたいなサイトが非常に増えたし、面白いことを書く個人のブロガーが見つけにくくなってしまった。私が一番たのしかったのは、分裂君や essa さんや(これははてなではないが)海外ニートさんが大活躍していたころの時代だ。いまだにちきりんを始め、何人かの古参ブロガーは残ってはいるものの、アマチュアのクリエーターたちが商業化する流れもあり、どうも昔ほど純粋に楽しめなくなっている感がある(まあ、私もネットで商売をしている口だから、人のことを偉そうには言えないのだが)。

    去年、私が一瞬だけ「有名」になったときがあり、その瞬間は私もやや舞い上がっていたときもあったのだが、どうもいろんな人たちの実態を見るにつけ、急に興ざめしてしまう部分があり、それから私はソーシャルメディアに対してある種の苦い思いを抱き始めた。ただ、その苦さの原因が自分でもいまだにはっきりつかめない。特定個人が悪いというわけでも、私自身だけが悪いというわけでもなさそうだ。この問題についてはもうしばらく考え続けてみたい。

    この tumblr の辺境でしばらくぶつぶつ言いながら駄文を書き続けていきたい。

     
  4. 15:50 1st Sep 2012

    Notes: 3

    エルム・ラボ紹介

    オンライン学習コミュニティ、エルム・ラボ。6月の発足から早いもので3ヶ月が経過した。会員は47名。9月末には60名が目標である。

    そもそもオンライン学習コミュニティって何?という疑問もあるだろう。そこで今日は、エルム・ラボの普段の活動について説明したい。

    メンバーの主な活動の場は、Facebook グループである。そこで、さまざまな意見交換を行う。

    最近の話題は、例えば次のようなもの。

    -2020年までに伝統的大学はオンライン無料大学に取って代わられるか?

    -オンライン無料大学のコースをエルム・ラボの人たちで一緒に取ろう

    -ペチャクチャナイトの紹介 http://www.pecha-kucha.org/

    他にも英語・中国語・IT等の学習情報の交換など多数があり、ここでは紹介しきれない。

    副次的な活動の場として、studyplus がある。ここでメンバー各自が自分の学習記録を他のメンバーに公開することで、お互いにコメントしあったり励まし合ったりする。これが意外と学習意欲につながるのだ。

    参考:私の学習記録

    http://studyplus.jp/users/elm200

    昨日、東京でエルム・ラボのオフ会が開催された。21名のメンバーが参加。とても楽しい時間だった。「エルム・ラボのおかげで英語の学習が続いている」等、エルム・ラボに対する好意的な評価が多数寄せられた。エルム・ラボ参加者は、基本的に英語・海外・ITなどに興味を持ち、新しいものも柔軟に受け入れる心の広い人たちが多い。そういう人たちと切磋琢磨したい人にエルム・ラボは向いている。

    会費は月1000円。PayPal での支払いとなる。有料であるということはメリットにもなりうる。それなりの覚悟のある人達だけが集まっているので、ノイズがとても少ないからだ。オフ会に出席してそれを改めて感じた。それでいてそれほど無理なく支払える金額であろうと信じている。

    入会希望の方は、次のページを参照されたい。

    http://d.hatena.ne.jp/elm200/20120605/1338866119

    エルム・ラボには楽しいメンバーが集まっている。本気で学習に取り組みたい方は、エルム・ラボへ是非。

     
  5. 17:29 27th Aug 2012

    Notes: 3

    英語圏の人々が見る日本

    最近、私は、John Dower “Embracing Defeat”, Lafcadio Hearn “Japan - An Attempt at Interpretation”, Luth Benedict “The Chrysanthemum and the Sword”といった、英語圏の代表的な日本研究家たちの作品を(英語で)読み込んでいる。いくつかの理由がある。

    一つは英語の勉強をしたいということ。何しろ一番実用的な英語力の使い方は、読むことなので、とにかく速く読めるようになるよう、単語を片端から覚えている。この1ヶ月間、そんな生活を続けているので、語彙力は伸び、やや速く読めるようになってきた。

    もうひとつは、英語圏の人たちの目で日本がどう映るのか見てみたかった、ということ。正直、日本人が日本を論じても、距離が近すぎて、感情的になりすぎるきらいがあるが、欧米人ならば、あるていど、観察対象と距離を保って、客観的に見ることができるのではないか、と期待したからだ。

    読んでみると、実に観察が素晴らしい。どの本も実証的で、多数の論拠が引用されている(特に、Dower の “Embracing Defeat” は圧巻だ)。本当にすごいとしかいいようがない。

    彼ら欧米人たちの書いた本を読んで抱いた感想は、「やっぱりね」というもの。分析の鮮やかさに驚くことはあっても、結論自体に疑問を抱くことはなかった。もちろん、彼らもいろいろと細かい事実誤認や勘違いはしているはずだ。だが、大筋について日本に対する理解は間違っていない、と感じた。

    (細かいことを言えば、Hearn は平田篤胤のイデオロギー的国学を真に受け過ぎではないかと感じた。ただ Hearn の生きた明治後期の日本では、そうした天皇中心の国家を建設するという熱意がみなぎっていたであろうから、その雰囲気は良く伝えていると言えるだろう)

    彼らの結論を一言でいえば「日本は、社会秩序を維持する上で、人目(=世間)という外部からの強制力に頼る。一方で、自分一人でも守ろうとする内面的な信条が少ない。それゆえ、社会全体の価値観の転換が一夜にして何の精神的負担もなく起こる」というもの。欧米から見れば、信念に一貫性のない情けない民族とも言える。私は、欧米的価値観を内面化しているので、こういうご都合主義は支持できない。

    こういう素晴らしすぎる作家たちの作品に触れると、正直、自分が文章を書くのが嫌になってくる。自分の文章のつたなさばかりが目につくからだ。それでも私は何とか文章を書き続けて行きたい。私の文章は、単なる記号の連なりではなくて、私自身の一部でもあるからだ。私の文章を誰かが代わりに書くことはできないのだ。

    ぶっちゃけ言えば、私より文章がヘタクソな人たちもまた掃いて捨てるほどいる。だが、文章が下手であっても、個性を発揮して、何かまとまった考えを表現し、読者を感動させる人々がいる。それでいいのだろう。誰もが三島由紀夫のような華麗な文章を書けるわけではないからだ。

    私の夢は、本を一冊書くことだ。能力が足りないことはあるまい。ただ何を書いたらいいのか、私はまだ分からないでいる。何かを調べて考えて発表したい。それが何なのか、これからも考え続けて行きたい。

     
  6. 英語への再挑戦

    私は最近、欧州、特にドイツに1ヶ月半ほど滞在した。その滞在は、欧州そのものより自分自身に対する深い反省をもたらした。

    ドイツ・ベルリンに到着したあと、私は不思議な感慨に襲われた。それは、自由な雰囲気を備えるベルリンが、昔住んでいたカナダのトロントを思い起こさせたからだ。なぜトロントを去ることになったのか、考えさせられることになった。いままで長い冬のせいにしてきたが、実はそれより重要な理由があることを認めざるを得なかった。つまり私は英語が完璧に出来ず、文化的にもカナダ社会にうまく溶け込めなかったということを。

    私は、完璧な英語を話すカナダ生まれのカナダ人たちとうまくつき合えなかったために、アジア系の学生や移民たちとの付き合いを加速させて行った。その延長線上に、韓国・中国・ベトナムへ行くという行動があった。だが、それは逃げではなかったのか。本当は、もっと英語を鍛え、カナダ社会で生きて行くべきではなかったのか。

    今となっては、それに対する明確な答えは出ない。いずれにしろ随分昔のことだし、私のカナダでの生活は確かに行き詰まっていた。私は、IT の仕事が好きになれず、カナダ人たちとも心底打ち解けることができなかった。英語はずいぶん熱心に勉強したつもりだったが、当時の環境ではあれが限界だったかもしれない…。

    この10年でインターネットの世界は長足の進歩を遂げた。いまでは、10年前に比べて大幅に英語学習の可能性が広がっている。だから、私は、これから英語を「ほぼ完璧」にしようと考えている。特に重要なのはリーディングのスピードだ。英語を速読できれば、それだけ英語圏の世界について深く知ることができる。私が10年前、カナダで挫折したことをこれから実現できるかもしれない。

    エルム・ラボは、オンラインの学習コミュニティであり、何を学んでもよいのだが、私としては、とくに英語「を」学び、英語「で」学ぶ、という部分を強調していきたいと考えている。なぜなら、善し悪しはともかく、いまや世界最高の知性は英語で表現されており、英語ができないと話にならないからだ。

     
  7. 12:44 24th Dec 2011

    Notes: 24

    新しい40代

    私は1970年生まれ。41歳である。来年6月に42歳になる。

    私たちは、自分たちが考えている以上にロールモデルを必要とする。むしろ、私たちはロールモデルの奴隷とさえ言っていい。何歳になっても、自分にとってはそれは新しい体験だ。それが20歳であれ30歳であれ40歳であれ50歳であれ。「何歳は○○のように振る舞うべきだ」という既成観念が私たちの頭の中に詰め込まれていて、それに従えないとき、我々は不安を感じる。

    若い人たちにはふんだんにロールモデルが用意されている。昔から小説・映画・ドラマの登場人物は圧倒的に若い人たちが多い。40歳を過ぎる頃には、急激にこうした文学的ロールモデルが少なくなる。

    おそらくはこういうことなのだ。若い人たちはいろんな道を模索する。だが40歳になるころには、人々はある種の社会的な役割を受け入れて、社会の歯車として、単調な生活を送ることに慣れ切ってしまう。ドラマの登場人物にするには退屈すぎるのだ。だから、40歳以上の人たちのロールモデルとしては、いくつかの平凡なステレオタイプしか存在してこなかった。

    だが時代が変わりつつある。人類にとって、物質的生産は大きな問題ではなくなりつつある。一方で知識が経済に占める付加価値が急激に上昇している。幸せをもたらすのはモノではなくライフスタイルになりつつある。こういう時代は、人々は一生を通じて学び続け、変わり続けることを強制されるようになる。

    多くの人たちにとって、第一のロールモデルは自分の親だろう。私の父親はごく平凡なサラリーマンだった。働き者だったが、生活は単調そのもの。一日の激務にクタクタになって帰宅するとテレビをつけて漫然と眺めるだけの日々。サラリーマンというライフスタイルに憎悪を募らせるきっかけになったのは父のそんな生活を見たからだった。

    私は父のようにはなりたくない。だから、私にはロールモデルが存在しない。40代をこれからどう生きるべきか指針は外部には存在しない。スティーブ・ジョブズがかつて言ったように、「自分の内なる心の声に従って生きる」しかないのだ。

    私は、結婚していない。子供もいない。だからそんなわがままが言えるのだ、という人もいるだろう。子供を育てるのはたしかに大きな責任を伴うし、親からはライフスタイル上の自由を奪うだろう(特に日本において子供を育てるのが大変だ、というところはあるが)。

    私自身は子供は実は結構好きだし、価値観を共有できる女性がいれば、これからでもまた結婚してもいいと思っている(実は私は以前、2年間ほど結婚していた。いろんな意味で残念な結婚生活だったし、いまはまだあまり話したくない。私の公開主義の唯一の例外だ)。そのとき自分のライフスタイルに与える影響についてはまだうまく推し量れない。ただ、結婚をそれほど型にはめて考えなくてもいいのではないか、とはちょっと思っている。

    夫が妻を養わなければならないと考えなくてもいいのではないか。夫も妻も収入があれば、互いを支えればよいだろう。配偶者が一方がノマドのように彷徨っている「ノマド婚」なんていうのもアリではないか。

    私は両親が離婚しているのだが、その経験からいうと、子供の立場からは一番嬉しいのは親が幸せな顔をしていることだ。両親が一緒にいるのが最高だけれども、もし、別れることでより幸せになれるのなら、子供はそれを受け入れる余地がある。固定観念に縛られて、歯を食いしばって教育費用を稼ぐ姿より、カネはなくても好きなことをやって笑っている親の後ろ姿を見るほうが、子供は幸せかもしれないのだ。

    おそらく人生は我々が考えているよりずっと自由なものなのだ。自分の心の声に耳を傾けよう。自分の頭で考えよう。そして自分の行動に対しては責任を取ろう。うまく行けば、ラッキーだし、うまくいかなかったら、苦笑いしながら、別のやり方を試せばいい。

    私にとって40代のロールモデルは存在しない。だから、私が自分で作ろう、と思う。私が、パイオニアだ。道なき道を切り開きながら進む。それをすべてインターネットに記録として残して行く。あとに続く人たちは、私の生き方で参考になる部分があれば、大いに真似すればいい。そうやってこの世界は少しだけ変わり、少しだけ多様にそして豊かになっていくのだろう。

     
  8. 11:33

    Notes: 21

    現代におけるカネというもの

    カネについて語ることが、しばしばタブーになるのはどうしてなのだろうか?

    「収入はいくらですか?」

    「資産はどれくらいありますか?」

    少なくとも日本社会では、上の質問はやすやすと行える質問ではない(ただしこれは文化依存的で例えば中国のような社会では、それほどタブーではないようだ)。

    収入や資産を他者に正確に知られることを好む人は多くない。ある種の公的な立場な人々 - 国会議員や国務大臣たち - は資産状況を公開しなければならないが、嫌々だろうし、正直に申告しないことさえあるだろう。

    自分が話している相手が、どれくらいの収入や資産であるのか、漠然としかわからない状況で私たちは生きている。仮に、お互いに収入や資産が完全に透明に分かったとして、そういう世界はいまよりよい世界だろうか?それともある種の暗黒世界(ディストピア)なのだろうか?

    そもそもみななぜ自分の財政状態を隠そうとするのか?仮に収入や資産が少ないとして、それが他者に知られることが恥ずかしいからか?そもそもなぜそれが恥ずかしいのか?

    逆に収入や資産が多いとして、それが他者に知られるのをなぜ怖れるのか?多くの人たちは正しく税務申告を行っていない。税務署が怖いというのは現実的な理由かもしれない。ただ仮に税務申告を正しく行っていても、なお資産公開に乗り気でない金持ちは多いだろう。彼らは、世間で変に目立ってある種のセールスマンに狙い打ちされたり、友人や親戚にたかられるのを怖れているのかもしれない(もっとも、最高の金持ちたちが自分の資産状況を完全に隠すのは難しい。自分の資産状況が一般公開される何らかの書類に掲載される可能性は高い。10億円も100億円も庶民から見れば、すごい金持ちという点ではたいして変わらない)

    自分の資産状況は、現代社会では、自分の病歴や恋愛歴と同じくらいの密やかなプライバシーとされている。しかし、そもそもプライバシーとはなんだろうか?ブログや SNS で一瞬で世界中に情報を発信できる現代において、どうして自分に属する何かを秘密にしなければならないのだろうか?

    試しにちょっと実験をしてみる。

    私の収入と資産状況をこの場で公開してみよう(まだおっかなビックリなので、概数にとどめておくが)。

    現在の私の収入は、月3万円程度である。このほとんどがアマゾンアソシエイトと Google Adsense からの収入である。貯金は、150万円程度。不動産や自動車は一切所有していない。パソコンやスマートフォンなどのデジタルデバイスはいくつか所有しているが、中古市場での価値はほぼゼロに近いだろう。

    この状況に私は満足していない。出費は切り詰めているが、この状況だと、あと数ヶ月で資金がショートする。それまでに財政状況を改善する方法を考えなければならない。

    以前、私はソフトウェアの受託開発をフリーランスで行っていた。そのときは、最盛期で月70万円ほどの収入があった。貯金も最盛期で1000万円ほどあった。受託開発をやめてから、収入がほとんどなくなってしまった。その後も受託開発のお誘いをときどき受けるが、ほとんど断っている。受託開発では自分の魂が満足できないからだ。

    受託開発は私にとってはコンビニバイトと同じ。カネを稼ぐための手段にすぎない。私はもう40歳を過ぎた。残された時間は長くない。自分が社会的に意義のあると感じられることをやりたいのだ。その過程で自分の生活を支える程度の収入を得たい。

    実は私にはほとんど物欲というものがない。私にとって切実に欲しいものは一つしかない。海外を渡り歩くための航空券だ。航空券だけはいまの時代でも相当高い。一度外国に行ってしまえば私は安宿と現地の庶民的な食事に十分満足できる(というかむしろ五つ星ホテルに泊まってお高く止まったレストランで食事するよりずっと楽しい)。多くの人たちより私のライフスタイルはずっと簡素化(simplified)されているので、それほどカネのかかる人間ではないはずなのだ。

    私はとりあえずロケーションフリーなライフスタイルを確立したいと考えている。書評人をはじめとしたネットサービスで月20万円ほど稼ぐのが当面の目標である。月20万円あれば、貯金の減少に歯止めを掛けることができるし、新興国ならば余裕を持って暮らすこともできる。

    ただ、自分だけよければいい、という人生はなんだかつまらない。私は自分が新しいライフスタイルを実践することで、同じようなことを考えている同じような人たちの背中を押したいと考えている。そう我々は21世紀を生きているのだ。新しい時代には新しい生き方が必要なのだ。私は、こういう新しいライフスタイルのための何らかのプラットフォームを作りたいと考えている。皆さんどうかご協力をお願いします。

     
  9. ひさしぶりに書くぞ

    しばらく Tumblr から遠ざかっていた。でもそろそろ再び書き始めても良い頃だと思う。明日あたりから書き始めることにしよう。

     
  10. 19:11 12th Nov 2011

    Notes: 8

    Reblogged from hkmurakami

    hkmurakami:

    先日『知識で身を守れ』という記事を書いた数日後、ツイッターでこんな感想が届いた。

    @hkmurakamiさんのブログを読んで金持ち父さん貧乏父さんを読んだ。金に対する意識が変わった。2日でほぼ読みきった。こんなに夢中になれる本は働き出して初めて出会う。いい本の紹介をありがとうございます

    @maspecial

    ブログを書く理由は人によって様々だ。僕自身、何のために文を書いているのか分からなくなる時もある。けど世の流れの中ではちっぽけな存在である僕が、誰かの人生に少しでも触れられるというのは、とても不思議で、素敵で、ちょっとこそばゆい。